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 少年は今日も海を見ていた。 
 辺りは一面の白、氷の平原が広がっていた。 
 太陽は白々とした淡い光を投げかけてくるだけ。平原を駆け抜ける風は刺すように冷たい。 
 分厚い防寒手袋を通して、長い金属棒の感触を確かめる。 
 視線の先には海があった。氷の間に開いた直径5mの海。少年にとって、10mもの氷が張りつめた海は海ではなく、目の前の隙間こそ、生きるために必要な海だった。 
 獲物はアザラシ。 
 少年が住む惑星には、入植と同時に食糧として数百種の魚が持ち込まれた。魚は食糧の乏しい氷惑星の食生活を支え、人口は世代を経るごとに増えていった。魚から作られる各種食品・医薬品・飼料等は周辺の星々に運ばれ、貴重な外貨を稼ぎ出した。 
 やがて富の集積は食生活を変化させた。住民は新鮮な野菜と肉を求め、富はそれを実現した。地上に降り注ぐ主星光を集めて温室を作り、野菜を栽培した。牧畜が出来ないため、肉は海洋哺乳類から得ることにした。そして、アザラシが放たれた。 
 天敵の居ない星でアザラシは爆発的に増えた。魚は食い荒らされ、外貨を稼ぐ方法は失われた。星はアザラシのために、前のような貧乏な世界となった。 
 そんな星であっても人々は残った。アザラシと共にやってきた、代々アザラシ猟で生計を立てていた家族がそうであった。アザラシの肉と毛皮は他の星で需要があり、一家族が生きていく程度の金は作ることができたからだ。 
 アザラシ猟はガマン比べだった。海を泳ぐアザラシは、呼吸のために必ず顔を出す。少年が見つめている穴が、アザラシの呼吸用の穴だったのだ。しかし、必ずそこに顔を出すとは限らない。群の斥候に気づかれたら、群は別の穴に行ってしまう。少年は息を殺し、気配を消して待ち続けた。 


 エリック・ハンセン曹長は、息を殺して待ち続けていた。赤外線での暴露を避けるのと同時に、結露によりバイザーが曇らないようにと機体のエアコンのスイッチは切っていた。以前の型のAFSであれば、装甲の隙間から入り込む冷気が我慢できなかったが、ほんの数週間前に支給された寒冷地用の新型スーツは密閉度が高く、断熱材の効果もあってかそんなに寒さを感じなかった。 
 部下たちはそうでもないだろう、と曹長は思った。あと、上官もだ。ハドソン湾の氷の上で平気なのは自分だけだ。 
『エリア12、報告せよ』 
 あの中尉め、とハンセンは口の中で悪態をついた。静かにしていなければ獲物に逃げられるというのに、あの中尉はわかっていない。オーストラリアで経験を積んだと言うが、ここは氷の海だ。砂漠とは違う。 
『異状無し』 
 律儀に報告する伍長の声。最近、傭兵には素人が増えたと曹長は思っていた。開戦から4年も経つとベテランの傭兵だけでは数が足りなくなり、アルバイト感覚でやってくる若造や粗暴さだけが自慢の現地民が員数あわせのためだけに雇われることが多くなった。自然と錬度は下がり、損害も増えた。 
 戦況に余裕があれば訓練で新人を鍛えることもできたが、肝心の士官はコネや政治力だけで選ばれる事が多くなり、彼らの多くは自分の評価と直結している戦果を求めるがために、時間が掛かる訓練を軽視し、兵士の頭数が揃うと戦場へと赴いた。それが損害を増やす原因であった。 
 曹長は腕を小さく振り、自分の部下たちに自制を促した。部下たちの苛立ちが伝わってくるが無視した。今は動くべきではない。 
『エリア13、報告せよ』 
 中尉の声が聞こえる。あの若い中尉は、お気に入りの下士官に取り巻かれ氷の上に突っ立っているのだろう。あまりにもの不用意さにため息が漏れる。 
 遥か遠くに白煙があがった。爆風で吹き上げられた氷の破片だ。中尉の声が途絶える。 
「来るぞ」 
 続けざまに白煙が上がる。弾着は正確に味方の居場所を穿っていた。愚かな中尉の通信に返答した連中の場所を。 
「立ち上がれ! 移動する」 
 曹長は後ろを見ずに走り出した。上空に白煙が伸びる。射出されたロケット弾は、大量の子弾をばら撒きエリア制圧を目的とするタイプだった。子飼いの伍長が兵に散開するように指示を出す。うなりを上げて子弾が降り注いだ。氷が砕け、雲のように舞い上がる。 
『だめだっ! 割れる!』 
「安心しろ! ここらへんの氷は大丈夫だ! 割れることはない。点呼!」 
 幸い部下に欠けは無かった。中隊司令部の通信は途絶していた。 
「全周防御。情報の収集だけに集中しろ。発砲はするな」 
『中隊長はどこだ!』 
『指揮小隊が直撃を受けたようだ。今確認に行かせている』 
『敵はどこにいる!』 
 パニックに陥った兵たちの声が電波となって辺りを飛び交う。 
 無線機のスイッチを押し、クリック音だけで中隊長を呼び出す。返答は無かった。エリックは、先任下士官の任務を全うすることにした。 
「全員黙れ! 各小隊、点呼!」 
 数分後には返事が返ってきた。少なくとも5名が戦死、中尉を含む数名が行方不明となっている。 
「あの中尉は悪運だけはある。生きているだろう。誰か敵を見たのはいるか?」 
 古参の下士官が多い小隊長たちは無線を使わずに手信号で部下たちに聞く。明確に敵を捕捉した者はいないようだ。 
「各自移動を繰り返せ。止まると撃たれるぞ」 
『中隊長の生存を確認した』 
「損害は報告しなくていい。退避させろ」 
『ハンセン曹長、勝手に指揮するな』 
 中尉がイラついた声をぶつけてくる。返答が無かったのは、一時的に無線機が不調になっていたようだ。もしくは、氷に顔を伏せ、ガタついていたか── 
「中尉、撤収した方がいい。敵は手に負えない奴だ」 
『曹長、指揮は私がとる。第2小隊、索敵。敵を探し出せ』 
 エリックは口の中で悪態をついた。敵の姿を見た者はいない。相手は氷の下にいる、と確信していた。 
 曹長は振り返り、部下に向って言った。 
「エンジン停止。索敵に全神経を集中しろ。敵の兆候を見逃すな」 
 エンジンを止め、氷の上にしゃがみ込む。小隊の各員もいびつな円を描くようにしゃがみ込む。そして顎を上げ、氷の平原に眼を凝らす。視線の先を友軍のAFSが走っていくのが見えるが、それには一瞬だけ注意を向けただけで視線を動かす。小隊委員は、氷で覆われた極地での行動に長けた曹長を全面的に信頼していた。右腕と言うべき伍長から、小隊に配属された戦歴が半年に満たない新兵もそうだった。身じろぎもせず、敵を探すことだけに集中していた。 
『曹長、なぜ動かない』 
 ヘッドホンに中尉の上ずった声が響く。説明するのも面倒臭くなったので、無線の調子が悪いフリをした。 
 その時、第2小隊が向った先で雪煙が上がった。ロケット弾が着弾したのだ。 
「何か見たか?」 
 3時方向を見ていた上等兵が応える。 
『4、5km先のあの──切り立った氷塊の後方で動きがありました。とても小さい、少なくともAFSよりかは小さい何かが』 
『AFSより小さいものが、ロケットをぶっ放せるか?』 
 伍長が言葉を挟む。 
『ロケットの発射は見てません』 
「誰かロケットを見たのはいるか?」 
『ロケットモーターの排煙らしいのを見ました。4時です』 
「わかった。行くぞ」 
 エンジンを再始動する。 
「先導は上等兵。一列縦隊。前進」 
『曹長、勝手に動くな!』 
 中尉が叫ぶ。声が動揺に震えている。中尉の太鼓持ちだった准尉はどうやら死んだか、身動きが取れなくなっているのだろう。中隊の指揮は准尉が中尉に進言という名の指示を出すことで行われていたのだ。神輿に上げられた中尉はその事に気づいていない。中尉の声を背に、走行速度をさらに上げた。 
 上等兵は氷の硬いところを辿りながら、着実に自分が目撃したものが潜むであろう場所に向っている。 
『曹長!』 
 上等兵が叫ぶ。目標としていた氷塊の手前で立ち止まった。 
『くそっ、潜りやがった!』 
「すぐにそこを離れろ! 全機退避!」 
 急いで反転し、走り出す。すぐ脇の薄氷を突き破ってロケット弾が上昇していく。
「伏せるな! 氷塊の裏に入ると潰されるぞ! 走れ!」 
 子弾が雨のように降り注ぐ。当たらない事を祈りながら走った。 
 着弾と同時に氷片が舞った。幸い弾幕の密度が低かったため、損害を受けた部下はいなかったようだ。 
「くそっ!」 
 ハンセンは、敵の姿を見た。氷と氷の間に開いた海面にグレーの背中を見せて潜航していく、敵の姿を。 



 2885年末から2886年2月に行われたシュパウヘンブルク包囲戦後、北アメリカ大陸北部のシュトラール軍部隊は撤退し、地域は傭兵軍の支配下に置かれた。 
 同地域に展開した傭兵軍は、シュトラール軍の残党狩りを行った。残党とは、親部隊からはぐれた兵のことでもあり、シュトラール軍に協力した民間人のことでもあり、包囲戦末期に大量に投入された無人兵器のことでもあった。特に無人兵器は、後方撹乱用に制御されている機体はともかく、支援を失い半ば暴走した機体は手に負えなかった。戦術もクソもなく根拠地を襲撃してくる無人兵器に前線の兵は辟易していた。そのため、無人兵器を狩る専門の部隊が編成され、部隊は春を目前としたハドソン湾周辺で活動していた。 
 ハンセン曹長の所属する第161装甲猟兵中隊も、そんな無人兵器狩り部隊の一つであった。中隊は中隊司令部小隊を兼ねる第1小隊がSAFSを装備し、残りの3個小隊はAFSを装備していた。といっても、シュパウヘンブルク包囲戦で損耗した部隊の寄せ集めであり、装備は定数を満たしていなかった。部隊のベテランはヨーロッパの部隊に引き抜かれ、残されたのは冬季戦のスペシャリストと素人だけだった。 

「曹長、中尉が呼んでる」 
 基地に帰った曹長を待っていたのは、老齢の整備班長であった。台架に固定されたAFSを脱ぐ。右腕を抜くだけで身体が外に出た。整備班長から手渡された義手を左肩に接続する。ハンセン機の左腕は巨大な義手となっているのだ。パイロットの脳波で各部を制御するAFSは、パイロットの四肢の状態は問題ではない。 
「何の用だ」 
 2人の背に回転灯の光が投げかけられた。振り向くと、残骸の山を乗せた台車が通過していくところだった。装甲戦闘スーツは貴重品であり、残骸は出来うる限り回収された。特にSAFSはパーツ単位にバラバラにされても回収された。 
 
「何かやったか?」 
「ああ、王子様を怒らせた」 
「大変だな」 
「死体袋には入りたくないからな」 
 半地下式の基地内の狭い通路を歩く。天井と床にはケーブルがのたくり、コンクリートの壁は結露で湿っていた。冷たく乾燥しきった外気よりはマシであったが、低く湿った空気は、身体と精神を内部から蝕んでいく。何人もの兵士が様々な病気を患い後送されている。 
 カバーをかけていない義手をそのままに、中尉の部屋のドアをノックする。 
「入れ」 
 不機嫌そうな中尉の声。曹長は平然とした表情で部屋に入る。 
 デスクに腰掛けた中尉は雪焼けした顔を憎しみにゆがめていた。その元凶は姿無き敵であるはずなのに、ハンセンに憎しみは向けられていた。 
「准尉が居られないようで」 
「准尉は戦死した。知っているだろう!」 
「いえ、初耳です」 
 胸を張り、直立不動の姿勢を取る。こうなったら理不尽な怒りを総て受け止めねばならない。反論は無意味だ。憎しみに歪んだ人間はその対象となっている人の言葉など聞く事は無い。したいことはただ一つ、言葉によりやりこめ、傷つけることだけ。 
 中尉は今日の戦いについて、荒々しい言葉をつないで語る。損害の原因は命令を聞かなかった曹長であると、何かにつけて付け加えた。 
「どうして命令を無視した!」 
 答えようがなかった。どう答えてもこの中尉は納得しない。中尉の中で答えはすでに出ているのだから。 
 曹長の沈黙に中尉は笑みで応えた。敵の一つを打ち破った喜びがにじみ出ている。倒すべき敵は俺じゃないだろ、と曹長は思ったが顔には出さないようにした。 
「おまえにやってもらいたいことがある。これは命令だ」 
 勝ち誇った中尉が取り出したのはいわゆる命令書であった。受け取る。 
「おまえにしかできない任務だ。本望だろう?」 

 中隊の配置換えが行われた。ハンセン曹長は第2小隊長から、臨時編成の第5小隊へと転属となった。第2小隊長には、それまで曹長の片腕であった伍長が軍曹に昇格して付くことになった。 
 交戦により損害を受けた中隊は、損害が皆無であった第2小隊の兵員を利用して兵力の回復を行ったのであった。 
 臨時編成の第5小隊は、ハンセン曹長と3名の兵員で編成されていた。新しい部下はまだAFSでの出撃時間が数時間というピカピカの新米たちであった。第5小隊の詰所は基地の外れに指定され、曹長はかつての部下と顔を合わせることも余り出来なくなってしまった。 
 しかも、曹長達に課せられた任務は、長距離偵察であった。持てるだけの消耗材を搭載し、AFSの稼動限界を超えて歩き、帰ってくるのだ。 
 訓練の時間も与えられずに、追い出されるように第5小隊は最初の偵察行に出発した。中尉の取り巻き達を除いて多くの兵員が中尉の行為に腹を立てていたが、中尉の報復を恐れて口を閉ざしていた。曹長とすれ違う下士官達は同情の視線を送ってくるが、ハンセンはあえてそれらを無視した。自分と中尉との間の問題を、基地総てに波及させるわけにはいかないからだった。 
 基地にあるマーカー上で、慣性位置測定装置を作動させ基点を入力する。部下にも同様にさせ、いざという時には自力で帰還できる一つの手を取らせる。地球軌道の制宙権をシュトラールに握られている傭兵軍は、衛星による支援を受けることがほぼ不可能であった。 
 ハンセンは、遠くに見える地形や氷の一つ一つを区別できるほどであったが、カナダのこの人も住まないような地域に送られて来たばかりの兵士たちにそれを期待するわけにはいかなかった。少なくともそれらの経験があるとは聞いていない。
 出発前の短い時間に、部下にはできるだけのことを教えておいてはいた。着込む防寒服は、流行の機体の電源を使って温めるヒーター付のものではなく、なるべく枚数を着込み、汗を吸収できるものにさせた。動きは鈍くなるが、機体のヒーターを使わずに済み、いざという時には機外行動も可能とするためであった。他にもあったが、気に留めさせるだけの時間しかなかった。 
 支援車輌に乗ることもできず、40km四方の索敵エリアを歩かなくてはならなかった。エリアの大半が凍った海であり、複雑に組み合った氷塊が道を塞いでおり、実際は2倍以上の距離を歩く必要があった。 
 ハンセンは先頭に立った。基地を振り返ることはしなかった。 
 降雪は無いが零下20度近い空気の中を歩く。運が良いことに着ているAFSは、このような地域での活動を目的に開発された「ポーラベア」の名を持つ新型であった。「ホッキョクグマ」の名を冠するだけあって、寒冷地への適応能力は今までのAFSとは比べようがなかった。気密性は非常に高く、装甲表面から冷気が浸透しにくいように装甲板の内側には真空断熱構造が取り付けられ、内燃/燃料電池併設の動力部からの熱もパイロットを温めるために使用されるという徹底振りであった。そのお陰もあり、ポーラベアの赤外線放射量は驚くほど低く、赤外線による索敵に対する大きなアドバンテージを持っていた。 
 しかし、そのような複雑な機構は稼働率の低下を生み出すことになった。シュパウヘンブルグ包囲戦前後に配備が始まったポーラベアであったが、前線部隊でも運用可能であるべきAFSのわりに贅沢な機能が仇となり、配備初期は持ち前の性能を生かすことができなかった。演習時に故障による機能停止を引き起こし、パイロットが凍死するという事故も発生した。それでも寒冷地に特化した装甲戦闘スーツの存在は必要不可欠であり、度重なる小改良を重ねて、ようやく安定した稼働率を確保することに成功していた。 
 それでも不安が無いわけではなかった。戦闘中に故障を起こすポーラベアの姿をハンセンは何度も目撃していた。それでも長距離偵察という今回の任務においては、AFSよりポーラベアを選択するのが当然のことであった。 
 一見目印の全く無い雪原を歩いていく。足元は分厚く凍っているとはいえ、海の上である。慣れた者にしかわからないが、圧縮された氷の鳴き声が聞こえる。 
 誰もが無口だった。どこまで行っても変わらない景色と任務に、新兵たちは語る言葉を持たないからでもあった。 
 何度か小休止を行いながら距離を稼ぐ。猜疑心の強い中尉の事、帰還してから機体の慣性位置測定装置を調べることが考えられた。手を抜かず、黙々と任務をこなしていく。 
 分厚く凍った氷に覆われた海の上に出る。先だっての交戦があった地域に近いところである。小隊を散開させ、広範囲を索敵できるようにする。 
『曹長! 氷の割れ目があります』 
 新兵から通信があった。手を振るAFSが見える。そちらに歩を進めた。 
 目の前に海があった。割れた氷の間にわずかに広がった海面だった。 
「小休止を取る。消耗品の補給を忘れるな」 
 ハンセンは目の前の海面と周囲の風景を見比べて、その位置を確認した。周りを見る。 
「これは……なんだ」 
 それは氷に刻まれた何かの跡だった。よく見ないとわからないが、雪上車などが装備するクローラーの跡に似ていた。それは開けた海面に向かって消えていた。 
 ハンセンは改めて辺りを見渡した。何か嫌な予感がした。 
「行くぞ」 
 小休止を終えた小隊は再び歩き出した。氷上を吹き抜ける冷たい風の音と、氷がきしむ音だけが聞こえている。 
「ん」 
 ハンセンは何かを感じて歩を止めた。何が起こったのかすぐにはわからない新兵たちがたたらを踏む。 
「散開しろ! 急げ! もたもたするな!」 
 遠くで氷が割れる音が微かに聞こえた。そして、ロケットモーターに点火する音が続いた。 
「伏せろ!」 
 上空に黒煙を曳きながら飛んでいくロケットから子弾がばら撒かれる。ハンセンは氷にヘルメットを押し付け、対爆姿勢を取る。 
 爆風が周囲を満たした。氷片が装甲板を叩く。 
『うわぁああああっ』 
 恐慌状態になった新米の一人が無線機に向かって叫ぶ。見ると立ち上がり、走って逃げようとしていた。 
「バカ野郎! 立ち上がるな!」 
 一人につられて、もう一人も立ち上がる。そこにまた子弾が降ってきた。 
 爆風の中に衝撃音が響く。吹き飛ばされる2機のAFSが見えた。 
「くそっ」 
 爆風が過ぎ去り、吹き飛ばされた氷の雲も晴れた。また静けさが戻ってきた。 
 頭を上げ、周囲を見渡す。転がっている二体のAFSはピクリとも動かなかった。
「動くな。損害があれば報告しろ」 
 生き残った新米は頭を積雪に押し付けたまま動こうともしなかった。ハンセンはそれで良しとし、改めて自機の状況を確認する。先ほどからコンソールに警告のランプがついていたからだ。 
「レーザーが不調か……」 
 弾片か氷の塊が命中したのだろう、レーザーガンがうまく動いていなかった。撃てたとしても1発か2発ぐらいだろうと判断した。 
 ハンセンは敵があの海にいる機体だと断定した。どうしてこちらの位置がわかるのだろうかと疑問に思った。 
 無線を傍受しているのかと思ったが、そうではないという予感がした。 
「聞こえるか、返事をしろ」 
 声をかける。新米はようやく顔を上げた。 
「俺はここに残る。一人で帰れるか?」 
 相手はしばらく反応しなかったが、何を言われたか理解して身体を震わせた。 
「大丈夫だ。敵さんはしばらく攻撃はしてこない。来た道を走って帰れば良い」 
 保障は全くなかったのだが、気休めを言ってみせた。 
「陸地にでれば、やっこさんは手も足も出せない。ほんの数Km走るだけだ」 
 そんな言葉に新米はようやく納得したのか、ゆっくりと立ち上がった。 
「よし、慣性位置測定装置を帰投モードに切り替えろ。いいか──走れ!」 
 新米が走り出した。人間を時速40㎞で走らせることができるAFSである。みるみるうちにその姿が小さくなっていく。 
 その時、またしても氷の割れる音がした。ロケットが撃ちあがり、子弾がばら撒かれる。しかし全速力で走るAFSに弾幕は届かなかった。 
「振動だ……」 
 ハンセンは、敵はAFSが歩く際に発生する振動を捉えているのだろうと推測した。 
「──よぉし」 
 ハンセンは意を決すると歩き始めた。推測が正しい事を証明するために、足音がしないよう慎重に歩を進めた。 
 目的地はあの海であった。数十分歩き、たどり着く。 
 敵は必ずここから顔を出す。ハンセンはそう確信していた。目標を探すためか、戦果を確認するためかはわからないが、ここに来ると信じた。 
 氷塊に腰を下ろし、エンジンを停止させる。静寂が辺りに満ちた。 
 ハンセンは待つことにした。待つことは慣れている。 


 気の遠くなるほど長い時間、少年は待ち続けていた。そして、その忍耐が報われる時がやってきた。穴から一頭のアザラシが顔を出したからだ。 
 天敵のいない氷の海の中で、アザラシ達は不要となった眼を退化させていた。群れの斥候は、ほとんど見えなくなった眼の代わりに鼻を使って周りを確認すると、再び海面下に姿を消した。 
 少年は手の中の金属棒を力強く握りしめた。まだ動くときではない。ここで動いては今までの苦労が水の泡となってしまう。 
 アザラシが再び顔を出した。そして、穴から身体を氷上へと押し上げた。一頭、二頭とそれに続き、十数分後には穴の周りはアザラシの群れで埋め尽くされた。アザラシ達は互いを呼び合うように声を出し、陽の光を浴びながら転がったりしている。 
 時が来た。少年は隠れ場所からやおら立ち上がると、氷を蹴って走り出した。 
 アザラシ達の間に恐慌が走る。突然の闖入者の登場に、群れはパニックに陥った。穴の周囲にいたアザラシが我先に海面に飛び込む。少年はそれを無視して、穴から遠くにいるアザラシを追う。氷上では鈍重な動きしかできないアザラシは、口から荒々しい息を吐きながら、少年から逃げようとする。 
 穴を中心にして少年は円を描くようにアザラシの群れを追い、もはや逃げられない距離まで追い払う。アザラシは声をあげ、上半身を持ち上げて威嚇する。しかし、少年はその行為を無視すると金属棒を振り上げた。 
 鈍い音が響く。頭蓋骨を砕かれたアザラシが氷上に転がる。少年は黙々と金属棒を振り上げ、次々とアザラシの頭に振り下ろし続けた。 


 長い時間が過ぎた。白夜の季節を迎えているため陽が地平線の向こうに沈むことはなかったが、地平線ぎりぎりを転がるように動いていく。辺りは夕暮れと夜の間の青灰色の空気に満ちていた。 
 ハンセンはゆっくりと呼吸しながら海を見つめていた。海面は鏡のように静まり返っている。 
 また時間が過ぎた。ハンセンは視界の隅に動くものがあることに気づいた。眼を動かし、それを捉えようとした。 
「あれは……」 
 それは、シュトラール軍の兵器ではなく、味方の兵器でもなかった。 
「白熊……」 
 ハンセンは驚きの声を上げた。かつて北極圏最強の陸上哺乳類と呼ばれた存在であった白熊は、22世紀初頭に絶滅したとされている。いるはずのないモノの姿を見て、思わず立ち上がりかけた。 
 その白熊は氷面に鼻をつけ、アザラシなどの獲物の匂いを追っているようだった。ハンセンがさらに驚いたのは、その白熊の脚が6本ある事だった。 
 6本脚の白熊──北極圏で行動する傭兵軍の兵士たちの間で噂になっていた存在だった。目撃するのはもちろん初めてであった。 
 余りの寒さに自分が幻覚を見ているのではないかとハンセンは思った。眼をしばたかせるが、白熊の姿は消えなかった。 
 白熊はしばらく匂いを嗅ぎまわっていたが、ふいに顔を上げた。その視線がハンセンのそれと交錯する。 
 ハンセンには白熊が笑ったように見えた。白熊は振り返るとゆっくりと歩き出し、視界から消えて行った。 
 ハンセンはしばらく白熊が去っていった方向を見つめていた。しかし、視野の隅でのわずかな動きを捉えるとそちらに集中した。すぐに白熊の事は忘れた。 
 海面にさざ波が立った。藍色の海水がさらに濃さを増した。何かが浮上してくる。 
 ハンセンはエンジンを作動させたい誘惑を振り払った。まだだ。斥候に気づかれたら群れは去る。 
 海面を割って灰色の怪物が姿を現した。ノイスポッターの頭部を醜悪に肥大させたセンサユニットを持つ、全長5mほどの小型の潜水艇のような機体だった。センサユニットを旋回させて周囲を捜索している。 
 ハンセンは知らなかったが、これはシュトラール軍の無人潜水襲撃艇「ゼーフント」という機体だった。 
 ゼーフントが氷塊の座るハンセンに気づいた様子は無かった。ゼーフントはセンサユニットを前方に向け直すと、艇体前部に装備された一対の歩脚を伸ばし、先端を氷に打ち込み、艇体を氷の上に持ち上げ始めた。艇体の下にはクローラーが装備されており、それが氷を噛むと、一気に氷上に這い上がった。 
「こいつか──」 
 ゼーフントの全体像が見えた。センサユニットと紡錘形の艇体、背部にはロケット弾の垂直発射ランチャーらしきものが見えた。艇体後部には箱型のコンテナが装着されていた。ゼーフントはクローラーを動かして海から離れると、停止した。 
 センサユニットの下部から折りたたまれた細長い腕のようなものが展開した。それに合わせてランチャーの蓋が開く。腕はコンテナの蓋を器用に開けると、中からロケット弾を取り出し、それをランチャーの中に込めはじめた。 
「そういうことか。薄氷を割って攻撃はできるが、再装填は上陸しなければならないということか」 
 ハンセンはニヤリと笑った。攻撃するのは今しかなかった。レーザーガンは使えないが、武器はある。 
 エンジンを起動させる。振動が氷を伝わる。それに気づいたのか、ゼーフントのセンサユニットがハンセンの方を向いた。 
「遅い!」 
 素早く立ち上がったポーラーベアが跳躍する。ハンセンは左腕を振り上げ、そのままゼーフントのセンサユニットに叩きつけた。普通のパイロットがやれば生身の左腕は使い物にならなくなるだろう。その心配はハンセンにはなかった。 
 ゼーフントのセンサユニットから破片が飛び散る。かなりの衝撃だったらしく、センサユニットの頸部が右に傾いている。ゼーフントはよろめくように後退した。 
 ハンセンは体勢を立て直すと、ゼーフントと海との間に入り込んだ。アザラシを海に帰すわけにはいかなかった。 
 ゼーフントが身体を旋回させ海に向きを変え、腕を伸ばしてきた。近接防御兵装を持っていないようだ。氷の下にいることがゼーフントの最大の防御方法だったのだ。氷上に上がったゼーフントは攻撃に対して脆弱な存在でしかなかった。 
 伸びてきた腕を右手で振り払うと、ハンセンは左腕を水平に伸ばして突進した。そして、その左腕をそのままセンサユニットの首元に叩きつけた。ゼーフントの頭部がぐらりと揺れる。衝撃で開いた点検ハッチらしきところから煙が噴き出す。 
 クローラーがガリガリと音をたてて氷を噛む。ゼーフントは左右に艇体を振り、どうにかして海に戻ろうとしていた。そのたびにハンセンは前に回り込み、左腕で殴りつけて、それを阻止する。 
 コクピット内に緑の光が点った。ハンセンは何事かと思い眼をやると、今までコンソール上に点灯していたレーザーガンの赤い警報灯が、正常であることを示す緑色に変わったのである。 
 まるでマンガだと思いながら左腕のレーザーガンをゼーフントに向ける。ぼこぼこになったセンサユニットが恨めしそうにこちらを向く。 
「悪く思うなよ!」 
 発射されたレーザーがセンサユニットを直撃する。それまでユニットを支えていた細い首がへし折れ、頭部が地面に落下する。 
 すぐさま銃口を艇体に向け、トリガーを引き絞る。クローラーがはじけ飛び、ゼーフントはがっくりと氷上に崩れ落ちた。 
 ハンセンはゼーフントが動かなくなったのを確認すると、作戦終了を基地に向かって宣言した。 
 アザラシ狩りは終わった。 

 

 

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